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阪神大震災遭遇記_鈴木奎子さんの手記転載

 筆者が参加しております、東京都文京区の防災ボランティア団体 ご近所de BOSAI では、人口密集地での直下型地震への備えにあたり参考とするため、阪神大震災を旅行者として体験された鈴木奎子さんの手記を題材として、意見交換するワークショップを計画しております。
 著者の鈴木さんのご厚意により、手記を当ブログに転載させていただいております。
 鈴木さんは1930年代生まれで、事業家であり、ボーイスカウトの運営リーダーもされていらっしゃったとのことで、大災害に遭遇されての的確な状況判断、危機対応力には、学ぶべきところが多いと感じます。
 ご自宅での備え、移動中の持ち物等、多くの面で皆さまの参考になる内容と思われますので、ご一読をお薦めいたします。

*  *  * 

阪神大震災遭遇記
一九九五年・一月十七日


 「こんど神戸に行ってみない?いいお店がたくさんあるし、エキゾチックでとてもいい街だよ!」そんなわけで、私達は神戸の旅を企画した。
 高校時代の同級生で、京都西陣に住んでいる高木***さんとだ。彼女は神戸をよく知っている。京都の人達は買い物に、おしゃれで安い神戸へよく行くという。そして、水が良いのでおいしいという、パンとチョコレートは必ず買って帰るという。
 京都からは私鉄が安くて便利らしいが、新幹線で来た私につき合って、京都駅から新神戸駅まで乗る。新神戸駅は神戸市を一望に見渡せる山の中腹にある。
 街を見物しながら石畳の道をホテルまで歩く。港街のせいだろうか、建物も商店も、他の街とはちょっと趣が違う、洋風のたたずまいが感じられる。
 ホテル「神戸東急イン」は神戸の中心地、繁華街のある三宮にある。ホテルの周囲はビル群だが、ちょっと横に入ると、アーケードのある商店街がいくつもあって、ファッションブティックや輸入物を売る店が多く、素見し(ひやかし)だけでも退屈しない。
色とりどりの、美しいイタリヤのプリントのスーツなど、高級品が多い。
 古いビルの三階にあるチョコレートの老舗は、入り口に看板もなく、どう見てもただの古ビルだ。知る人ぞ知る。それが老舗の格式だろうか?私達も数種選んで買った。
 どこからか、香ばしいパンを焼く匂いが漂ってくる。焼きたてのパンを売る店に、客が群がっていた。中華街はまさに活気あふれる街で、あちこちに行列ができている。
 コロッケの店、蒸しながら肉まんを売っている店、レストラン・・・。アツアツの肉まんなどを食べながら歩いている人も多い。私達もその中の一つの列について、中華レストランに入り昼食を取る。びっくりするほど安い。
 鉄道の高架下も軒並み商店街になっている。大阪の船場やアメヤ横丁の感じだが、ここはヤング向きの安い衣服が多く、若い人達が行き来していた。
 ホテルでチェックインして一休みした後「そごうデパート」近くの地下街を散策する。喫茶店でおしゃべりをして、ホテルに戻ったのは九時頃になっていた。
 明日は早くホテルを出るので荷物は揃えておく。
 この美しい豊かな街が、一晩で廃墟の街になってしまうなんて誰が想像しただろうか。

 翌、一月十七日、うとうとしながら今日の予定を煉っていた。
 「六時になったらロビーで宅急便の箱を買ってくる。昨日、輸入小物店で買ったイタリヤの薔薇の花の磁器は重いから、不要になった着替えとともに家に送ってしまおう」と。
 五時四十六分。「おや地震?」一瞬の緊張の間もなく、地鳴りのような轟音。体はもみくちゃに転がり、大きな物が落ちる音とともに、ベッドから床にたたきつけられた。
 まさに一瞬だった。ホテルのベッドには掴まるところが無い。パッと非常灯がつく。
 まず、一番大事な、私は眼鏡、友達は補聴器を捜す。
 こんな時はまず情報!とテレビの所まで走る。テレビは台から真っ逆様にひっくり返って線まで抜けている。電話は応答なし・・・・。非常ブザーが鳴っている。
 「これはただ事ではないぞ!」と察知した。「急いで逃げよう・・!」とかけ声をかけ合いながら身じたくをする。外はまだ真っ暗。幸い窓ガラスは割れていない。
 ホテルの従業員が「急いで非常口から下りてロビーで待機していて下さい!」と叫んで廻っている。十階の非常口は開いていた。もし火でも出たら危ない。何より、助かることが大切だから・・・・・。幸い荷物はすぐ出発できるよう出口に置いてあった。
 みっちゃんは落ち着いていて、転がっていた化粧品や、地震の振動で飛ばされ、点灯していた部屋の懐中電灯まで抬ってきていた。上出来!!

 九階、八階、七階・・・と数えながら階段を下りる。お互いの無事を声をかけあいながら確認する。階段には、壁の破片などが散乱しているので足許に気をつける。一階からロビーヘの出口が塞がっていて開かない。私達が先頭。一瞬、ゾクッと寒気が全身を走る。
 コーラの瓶が通路に転がっていて、足許が危ない。もう一方の出口は開いていた。ロビーは薄暗く、まだ数人しかいない。そのうち続々と客が集まってきた。裸足にスリッパや、着のみ着のまま、パジャマで震えている人もいる。
 客は八十人ぐらい。血で染まった怪我人が二人。一人は寝巻まで血まみれで、急ごしらえの机の担架で、病院に運ばれた。
 従業員が、客室から毛布を運ぶのを手伝ってくれる男の人を、募集している。
 こんな時、私は何をすべきか・・・情報!・・・そうだラジオがあったはずだ。問屋の売り出しの景品で貰った、カード大のラジオを、バックに放り込んで置いたのに気がついた。「京都、震度五・・マグニチュード七・二・・・」が耳に飛び込んできた。友人の家は京都だ。「大変、震源地は京都だって!今日は早く家に帰ったほうがいいよ」
 余震があり、みんな悲鳴を上げる。
 「早くこの恐ろしい街を抜けだそう」とホテルを出た。まだ薄暗い街は、まさにゴーストタウンだった。ビルの壁やガラスの破片が道一杯に散らかり、足許に気をつけながら、近くの三宮駅に向かう。三宮は神戸の中心街で、私鉄も含め三つの鉄道駅がある。
 駅では電話の前に、長蛇の列。私達も並ぶ。たぶん、私の夫は眠っているだろうから、朝早くから心配させても・・・。と友達だけがかける。
 「京都は棚から物も落ちなかった。心配ないから今日は予定の行動を取ってもいいよ」と云っていたという。
 ご主人はテレビを見ていたらしいが、神戸の惨状は、まだニュースになっていないようだ。JRの駅員に聞くと、不通。阪神も阪急も、当分運転の見込みなしという。
 「陸の孤島」という言葉が一瞬頭をよぎる。神戸に閉じ込められてしまったのだ。
 「この際、どこの誰か分からない、私達を守ってくれるのはホテルしかない。私達はお客だから・・・やっぱりホテルに戻ろう!」
 ホテルは正面右側、レストランの大きな一枚ガラス(厚さ15ミリ)が割れて、ほとんど無くなっていたが、建物はしっかりしている。ロビーでは、みんな毛布に包まって震えている。割れた窓から吹き込んでくる風が冷たい。幸い、クッションのある椅子が空いていた・・・。 二十四時間、その、ソファーが私たちの城になった。
 ラジオのスイッチを入れる。「神戸、震度六・・・」「えっ・?、神戸が一番ひどいようだよ。交通は京都・大阪方面全面ストップだって・・・。」
これでは、目鼻がつくまで、このホテルで待機しているしかない。
隣に座っている若夫婦は香川の人で、立体駐車場が停電で動かないので、車が出せず、身動きが取れないという。しかも、ご主人は風邪で熱があると言う。
 椅子に座って、ひたすらイヤホンでラジオを聞き、まわりの人に情報を知らせる。
 八時半頃にはホテルの従業員の数も増え、トランジスタラジオを大きくかけ出した。時々近辺の情報も流してくれる。
 電話は地下駐車場と駅だけしか使えなくなってしまった。「今から案内するからついて来て下さい」という。希望者がゾロゾロとついて行く。
 電動シャッターが、下りたまま開かない、駐車場は真っ暗だ。懐中電灯の明かりを頼りに歩く。柱の処にある公衆電話を、ホテルの人が、ダイヤルが見えるように、照らしていてくれる。よほど動転しているのか、私の前の婦人は、ダイヤルを間違えてばかりいる。
 我が家は留守・・・・・。もういちど行列の後に着く。
 十時過ぎ、やっと自宅と連絡が取れ、無事を伝える。
 いくらか落ち着いたら空腹に気づく。「昨日の『ドンク』のパン、あの時買っておけばよかったね。」同時に言葉が出て顔を見合わせた。昨夕、おいしいと評判の神戸のパンを買っていこうか、どうしようか大いに迷って、家に帰るのが明後日になるので、「やっぱりパンは焼きたてでなくっちゃ。」と買わなかったのだ。後悔先に立たず・・・?
 ホテルの従業員に「交通マヒで、今夜もホテルにお世話になるしかないのですが、食事などは、どうしたらいいでしょうか?」と尋ねた。
 「大阪の東急ホテルに、御客様をお移ししようと、バスをチャーターしたのですが、道路状態が悪いので、断られてしまいました。けれども、心配しないで泊まって頂けるように、夜は寒くないようにします。食事も、東急ホテルから、届けてくれることになっています。」と云う。そして、売店の電動シャッターの隙間から、手を伸ばして、商品のクッキーやせんべいの箱を、器用に引き寄せ、客に二~三枚ずつ配りだした。
 香川の若夫婦の姿が見えないと思ったら、大きな紙袋を抱えて帰ってきた。「コンビニエンス・ストアが二軒だけ開いていたが、食べ物はほとんど売り切れだった。」と、それでも、せんべいや缶ジュース、懐炉、アルコール綿などを買って来ていて、私達にもくれた・・・。水の出ないトイレに、この携帯アルコール綿はありがたかった。この小さな一枚の手拭きを、翌日西宮北口駅まで大切に使った。
着のみ着のままの娘さん達が、身支度をして下りて来た。ホテルの人に頼めば部屋に連れていってくれるという。部屋には捨てたつもりの洗面用具がまだ残っている。
 好奇心も手伝って、「行ってみない・・・?」こういう時は実に気が合う。
 幸いみっちゃんが鍵を持って来ていた。数人がグループになり、懐中電灯で誘導して貰って階段を上る。四階から上は外にある非常階段なので、外の様子も見えるが、勝手な行動は禁止され、自分の部屋に行くのみ。
 十階の部屋を開けた途端、その乱雑ぶりに驚いた。テレビ、椅子、テーブル、ゴミ箱・・・・みんなひっくり返っている。洗面所の鏡もメチャメチャに割れ、大きなかけらが浴槽に沈んでいたそうだ。トイレを使用していなくてよかった!入浴中だったら、とゾッとする。間一髪の幸運だった。枕元の化粧ポーチが見当たらないと思ったらベッドの足下に落ちていた。何と二メートルも飛ばされたのだ。中身が点々とベッドの上に落ちている。
 読みかけの、永六輔の「大往生」が出てきた。「『大往生』読んで大往生しなくて良かったよ。」と冗談も飛び出す。
 下りの非常階段から見ると、同じ「東急イン」でも、旧館らしい後ろの建物の窓ガラスは大破し、窓と窓の間の壁は、どれもXの字に亀裂が入っている。怪我をした人は、そちらの建物に泊っていたのだろうか。新旧建物の継ぎ目と分かる場所は、パックリ口を開いていて、暗い二階ホールにかすかな光りを入れている。
 断水で一階のトイレが満杯になってしまったので、二階のトイレに行くのだが、階段もトイレも真っ暗。階段は壁がはがれ落ちて、ガチャガチャで危険だ。それで、集団でまとまって、前と後ろをホテルの女性が、懐中電灯で照らしてくれ、みんな、恐る恐るトイレに移動する。用が終わるのを待って、また集団で一階に下りる。まさにトイレの行列だ。
 水の出ない暗いトイレと、瓦礫の階段が不気味で、つい水分を控えてしまう。
 ホテルの女性従業員が、けなげに、私達を誘導して照らしてくれる・・・・・。

 少し落ち着いてきたので、「外を見て来よう」と意見一致。居心地のいいソファーの城を確保するため?みっちゃんと交代で外へ出る。道に迷う心配もあり、上から何が落ちてくるか分からず不安なので、ホテルのすぐ近くだけを歩く。隣の神戸新聞社のビルは、ほとんどのガラスが割れ、壁もひびだらけのすごい様相だ。
 これがあの十数秒の地震の仕業とは・・・。道路は盛り上がったり、ガラスが散っていたり、危なくて歩けない。遠くに前日行った「そごうデパート」の中心に、大きな裂けめが入って見える。隣のビルの自動販売機でカメラを買っている人がいる。「そうだ、写真を撮ろう!」二十七枚撮りを一本買う。(これは足りなかったが後の祭り・・・・・)
 お昼は、ホテルの余りと思われる食パンとバターロール、ジャム、缶の飲み物が配られた。余ったパンは非常用に袋に保っておく。
 港まで歩いて四十分、「船に乗れるかどうか行ってみる。」と出かけた人達は、とうとう戻ってこなかった・・・。無事、帰れたのだろうか・・・?
 午後には全ての電話が不通になってしまった。ただ、香川の若夫婦が、風邪の旦那さんのため、羽毛布団を取りに部屋に行った時、奥さんが実家にかけてみたら通じたという。
 だからといって、いまさら十階まで、電話をかけに行く元気もない。ただ毛布に包まってじっとして居る・・・。そのうちホテルの従業員が、部屋から羽毛布団を、シーツに包んで降ろし始めた。玄関でホコリを叩いて隅に積み上げている。
 ヘルメットの男達が数人入ってきて、何かを点検し始めた。風が吹き抜けていたガラスのウインドウのブラインドが降ろされた。
 うたた寝をしながら、ガチャンガチャンという音を聞いていた。目覚めるとウインドウが壁になっている。よく見ると壁材は、ホテルが客のために用意しておく、宅急便のダンボールだ。さすが、と人間の知恵に感心する。これで夜の冷たい風から解放される。
 大きな糸巻き状のものから線を引っ張って、一本だけ蛍光灯が点いたので、ダンボールの壁で暗くなったレストランが、ボーっと明るくなった。
 それでもみんなロビーに座ったままじっとして居る。暗い中、人の動きと物の位置だけは分かる。「懐中電灯は電池の予備がないので大切に使って下さい・・・・・。」
 外も暗くなった頃、紅茶サービスがあった。「寒い人はウイスキーもどうぞ・・。」
 ガラスのコップにティーバックを入れたものだが、震災後始めて口にする暖かい飲み物だ。グレープフルーツが、次にパイナップルがまわってきた。
 さすがホテル、一切れずつ食べよい形に美しく切ってある。
 「夕食が遅れてすみません」と言う。「大阪東急ホテルを正午過ぎに出発した」と言うのに渋滞でまだ着く気配がない。救援物資優先で走っても結局、食事等が着いたのは八時過ぎだった。レストランでカチャカチャ音がする。お皿が割れてしまって足りないのか、お皿は二人に一枚。テーブルの上に、バイキング式に料理が並べられている。
 まず、小さいおにぎりが一人に二個ずつ、ひとつの皿に配給され、空いたところにおかずを載せる。小さめの田楽二種、野菜の煮物、牛肉の煮物、漬物・・・と、それだけ載せたら、中皿は山盛りになってしまった。ポットにポタージュスープ、ケーキもあった。
 淡いピンクの花も飾ってある。大阪からのお見舞い品らしい。非常食にしては、バチが当たりそうなリッチな夕食だった。それを暗い懐中電灯の明かりやローソクの明かり、毛布に包まれて食べる姿はやっぱり被災者である。
 でも、私達には不安はなかった。帰る家があるのだから・・・・。
 ホテルの従業貝達は、朝からキビキビとよく奉仕してくれた。彼らも被災者であるだろうに・・・、客に不安を持たせないように、一日中気を使ってくれ、ありがたかった。
 客も静かだった。テレビドラマ「ホテル」が現実と二重写しになる。ああいう啓発ドラマは人間の質を向上させると思う。テレビも、殺人・刑事アクション・怪獣・よろめき・・・・など、無味乾燥の殺伐した物も多いように思う。が、「大草原の小さな家」や「ホテル」のように、心なごむ血の通ったドラマ等のほうが、幼児や若者に優しい心が、自ずと育ってくれるように思うのだが・・・・・?
 興味本意の索漠としたドラマを、一年中見せておいて、今更、教育がどうのと評論しても始まらないと思う。頭の柔軟な海綿の内に、優しいもの・美しいもの・暖かいもの・を吸収して貰いたいと願うのは、世の親、誰もの望みだと思うのだが・・・。
 この震災に、ボランティアに打ち込む、純粋な若者が大勢いて、頼もしく感じているのは、私ばかりではないのではないだろうか・・・・・。
 ガス漏れの心配がなくなったのか、缶入りローソクでミネラルウォーターを沸かしたお茶もある。湯呑みは自分用を洗わずに使うが、二階のトイレに行きたくないので、水分は控える。寝床は、ロビーの大理石の床の上とはいえ、毛布が一人に二枚以上、羽毛布団と懐炉もあるので寒さの心配はない。
 一本だけ、電灯の点いたレストランにテレビも入った。携帯用に近い小さなものでザラザラ画面だが、手のほどこしようもない火事が写されている。「ここ、三宮は大丈夫でしょうか」と尋ねると、「長田区は西にあるので、ここは今のところ心配はない」という。
 どうやら、私たちの想像を超えた災害であるらしい。
 すぐ前の国道二号線では、一晩中、救急車・消防車・パトカーなどが入り乱れてピーポ・ピーポの音は鳴りっぱなしだった。

 午前四時半・・・。ウトウトから目覚めてまずラジオのスイッチを入れる。火事の被害はますます大きくなっている。道路状態もよくない。歩く人、ヒッチハイクの人もいるという。ただひとつの希望は、阪急が西宮北口―大阪梅田まで開通するということだ。
 「これで帰るしかない!」と考えていたら、玄関先で「今から、西宮までタクシーで行く。」という男性の声。思わず「私達も乗せて!」と飛んで行ったが、もうタクシーは玄関先で待っているという。それでは間に合わない・・・。
 時計は五時・・・急いでみっちゃんを起こして荷物を軽くする。無駄なものは捨てる。
昨日残したパンと飲物は持つ。ラジオを聞いていると歩くことになるかも知れないのだ。
 いつでも出られる体勢にしていると、また「大阪方面、タクシー相乗りする方いません
か?」の声。「行きまーす。」と走って行った。
 ちょうどその時、朝一番にタクシーで出かけた男性が戻って来た。「一時間に二百メートルしか進まず、その先はいつ動くか分からないのでタクシーを降りてきた。」と言う。
 「タクシーはやめよう。」さっき、声をかけた人達は、それでも出ていった。
 私達はもう一度情報を仕入れるため、今度はテレビのところに行った。テレビは一晩中音を小さくして、放映していたようだ。地元の人という男性が話している。
 「西宮迄は歩いて四時間位かかると思うが、今は歩くしか方法がない。」彼らは会社が途中にあるので「会社に一度寄ってから西宮北口駅迄歩く」という。
 「私達も連れていって下さい」と頼む。
 こういう非常時は「個」で動くより「群」で動いたほうが心強いという本能が働く。まして何かという時は男性が頼りになる。(男性にとっては女性が重荷かな?)
 彼らがまだテレビに見入っているので、私たちはソファーのお城?に戻って一休み。
 私がウトウトしている間、みっちゃんが、置き忘れられないように、彼らの行動を見張っていてくれた。その方たちが玄関先で挨拶を始めた時、すかさず飛んでいった。
 彼女の「私たちも連れてって下さい!」の声に私も思わず立ち上がっていた。
 「奎子さん行こう!!」 準備は出来ている。置いて行かれては大変なので、回りに休んでいる人達に、「さよなら!」をする余裕もなく飛び出した。
 出掛けにホテルでは、おにぎりを三個ずつと水を持たせてくれた。
 震災に遇ってから二十四時間。私たちは安心してこのホテルに泊まることが出来た。
 「東急で良かったね。命拾いしたね」と話し合った。
 それなのに住所と電話番号を記入するだけで代金の請求もなかった。(帰宅後すぐ、私の地元・烏山町と神戸市の災害対策本部宛に、ちょっとまとまった義援金と、手作りの梅干し他を送ったけど・・・方角違いだったかしら・・・・?)

 午前七時五分、三宮出発。二人の男性はパン屋さんという。「ドンク」とは一昨日「そごうデパート」の地下で、買おうか買うまいか迷ったパン屋さんだった。
 「あら、『ドンク』さんとはご縁があったんですね!私は終戦の時、「三十八度線」越えの経験がありますし、彼女も足には自信があるそうです。よろしくお願いします。」
 パン屋さんは私の重たい手提げを持ってくれた。みっちゃんは、長めの手提げの紐をリュックの代わりに背負い、私は大きなボストンとショルダーバッグを、首からぶら下げているので、両手が使える。早速昨日買ったカメラを取り出した。
 傾いたビル。一階が潰れ、目の高さに看板がある商店。高速道路が横倒しになり直角に連なっている。足元に、トラックが荷物のみかんと一緒に転がっている。
 木造瓦葺きの日本家屋が、そのまま潰れているのが多い。瓦がすべり台を滑るように落ちて、泥と木肌がむき出しになって崩れている。こんど家を作る時は瓦はやめよう。
 これだけの地震でも、無傷に見える建物がある。
 布団?を干してあるマンションもあり驚き!!!・・・。
 朝、タクシーから戻ってきた男性が追いついて来た。がっしりと長身のその方はさすがに早い。途中電話の行列についたのに、また追いついた。
 “号外売り”の前に人だかりがしていたが、遅れてはみんなに申し訳ないので、心残りながらも買わずに通り過ぎてしまう。
 強烈なお酒の匂いが漂って来た。ここは灘と気づく。道端にある昔ながらの井戸ポンプに水汲みの行列が出来ていた。そうだ!ここは名水の地「灘」なのだ。
 行列はあちこちで見かけた。 公衆電話・給水車・それと、車・車・車・・・。
 みんな根気よく待っている。
 東灘に来て「ここが昨日火事で被害の大きかった所ですよ。」と示された所は、道のそばまで黒く横たわった瓦礫の山。白っぽく残る商店のシャッターの他は、全て真っ黒に焦げて潰れた家々。遠くに窓が黒くなったビルが見え、近くに完全に燃えつきて鉄筋だけが残っているビルがある。まだ白い湯気のような煙がくすぶっている。
 まさに廃墟だ。この辺りは木造家屋の多い一帯のようだ。
 道案内をしてくれた「ドンク」の方達は東灘で「会社に寄る。」といって別れた。
 「国道二号線をまっすぐ進んで、西宮市に入ったら道を尋ねるよう。」教えてくれた。
 「感謝!助かりました・・!!」後から追いついた男性が、こんどは私達のガードをしてくれ、大きい方のボストンを持ってくれた。
 リュックを背負って神戸方面に向かう人達が、大勢、非常線を張られて足止めをくっている。「ガス漏れ危険。」・・・LPGのタンクが漏れているそうだ。
 私達は、そこを難なく脱出出来た。早めの決断と出発が正解だったようだ。
 今頃東灘入口の神戸側にも非常線が張られ進入禁止になっているだろう。
 毛布や布団を抱えて、避難所に向かうと思われる人達にあちこちで出会った。ほとんどの人が着のみ着のままかリュックひとつだ。
 芦屋市に入った。電車が脱線したまま線路に立ち往生しているのが見える。連れの男性は、私達に合わせてゆっくり歩いてくれてはいるが、何しろコンパスが違う。三時間近く必死に歩いたので、さすがに疲れを感じてきたし、朝から何も食べていないので、お腹もすいてきた。地元の人が、焚き火をして座っている所につい目が行ってしまう。
 (もし、そこで休ませて貰っていたら、震災の悲惨をもっと肌で感じていただろう。)
 道路は石畳が盛り上がったり、ひびが入っていたりで、つまずきそうになる。
 道端にベンチがあった。もう歩けない!連れの男性も、休む場所を捜してくれてはいたようだが、勿論、喫茶店など、どこも開いている処はない。
 「私達、ここで一休みしておにぎりを食べていきます。」「こんな重い荷物持って歩けますか?」「大丈夫、休み休み行きますから。」と、御礼を言って別れた。(疲れていて早く休みたかったので、名前を聞くのも忘れてしまった。)
 ベンチに倒れるように座る。ベンチの足がそばの立木に縛ってあってよかった。それを確かめる余裕もなく、私達はそこにへたりこんだのだ。
 おにぎりを頬ばっていると、通りがかりの人から「どこで売っているのですか?」と聞かれた。昨日ホテルで貰ったパンを「よろしかったら」と差し出したら嬉しそうに持って行った。 缶コーヒーも残っているのに気づき、通りがかりの学生に「いる?」と聞いた
ら「貰ってもいいんですか?・・・」
 どうやら食べ物が不足している気配が感じられる。私達の“おにぎり”は救援食として「東急イン」の兄弟会社「東急建設」などから贈られたものだ。
 あらためてホテルに感謝!。

 一休みして落ち着いたので、公衆電話の行列につく。停電でカードが使えないので百円玉を入れる。それぞれ家に、芦屋まで来たことを連絡した。家では一体どういう方法で芦屋に来たのか騒いでいたという。勿論、私達が歩いているとは知らない。
 私たちと同じに東へ避難する人達も増えて来た。
 車が渋滞している道路を見てびっくりした。一時間ぐらい前に、毛布に包まった人達を乗せた小型トラックを追い越したのだが、それが、今、横に止まっている。
 その聞に私達は、食事と電話を済ませている。やっぱり歩きの方が早かったのだ・・。

 止まったままの車の行列の間を、パトカーに誘導されて、救急車と消防車が、ノロノロ動いている。救急車等が通れるように「左に寄るように!」放送しているのに、動かないトラックが、通り過ぎた救急車の後ろから、強引に割り込んで走りだした。
 ケシカラン車だ。
 自衛隊のトラックや、横に救援物資と大書きした車が、ノロノロと神戸方面に向かって進んでいる。「ダイエー救援物資」と書かれた車もあった。消防車は北九州市や名古屋からも来ていた。それなのに、肝腎の大事な車両が渋滞で思うように走れない。
 こんな時、一般の車は凶器だと思った。
 自転車とオートバイだけがスイスイと走っていた。

 二人だけなので休み休み歩く。公園では、避難する人達が大勢休んでいる。
 西宮北口-梅田間の開通を知らないで、ひたすら、東に移動している人達があった。
 地元の人達なのに、逆に私がラジオの情報を教えて上げた。ラジオがあったので、私達は何の不安もなしに、知らない道を歩けたのだ。
 クリーニング店の店先では、自家水道をみんなに分けて上げていた。
 行列についている、ある奥さんの持ち物をのぞくと、左に、大小十本ぐらいのペットボトルを入れた袋、右に大きなポリタンクを持って並んでいる。「これ一人で持つんですか!?」 思わず声を上げてしまう。 もっとも、私だって、地震で送りそこなった、磁器の小物がたくさん入った重たい荷物を持って、JRの駅で六駅、私鉄で十駅の区間を、今歩いているのだ。火事場の何とか・・・・・?
 総ガラスの十階建はあろうかと思われるビルが、無傷で立っている。かと思うと、螺旋状の非常階段と、建物が、逆・八の字に離れているビルがある。何のための非常階段か。
 ボヤなのか、奥の方から煙が見えたが、消防車の姿はない。
 大体、こんな車の渋滞では、どんな火事場も間に合わないよ・・・・

 やっとの思いで、西宮市の標識が目に入る。ヤレヤレと近所の人に道を尋ねた。
「北口駅はまだまだ。早足でも四十分、ゆっくり歩くと一時間はかかりますよ。」
「エエーッ!?」・・・・でも前へ前へ歩かなくてはならない。両足がツレそうだ。
 無理をしないで休みながら歩く。避難する人はどんどん増えてきた。

 西宮に来て始めて交差点に信号が点いていた。それでも、通りにある商店も銀行も全て休業だった。(一軒だけ、お一人様三点のみと書かれたスーパーがあったが・・・。)
 巨大ビルの三階が潰れている。スーパー「いずみや」とマンションの複合ビルだ。
 その角の信号を左に曲がる。
 「いずみや」ビルを横に見ながら歩くと、前半分の三階が潰れているので、建物は軽く会釈をしているように見える・・・。この「建物」は生きるのかどうか。
 高木さんの店、「株式会社・高木」はこのスーパーにも帯類を卸している。
 こんどは、方角を北に向かって歩く。が、なかなか北口駅には至らない。
 大阪の娘さんの所に避難するという、芦屋からの老夫婦と道連れになり、道案内をして貰う。お二人は定年後、芦屋に、総桧作りの立派な家を建てたが、地震であちこち修理しなくては住めない。ガス・水道・電気が来ないので、自分の家にいながら、一晩中寒さに震え、食べ物も、昨日からパン一個しか食べていないという。
 「冷蔵庫は?」と聞くと「電気の来ない冷蔵庫の物は食べられない。中身は全部庭に埋めてきた」と言っていた。
 電気のない生活は考えられない世の中なのだ。
 やっと、阪急・西宮北口駅が見えてきた。リュックを一杯にふくらませ、手にポリタンクを持った人たちが大勢、改札口から出てきて被災地に向かう。
 「タクシーは動きませんよ。」と教えてあげる。
 私達のように、梅田に向かう人達と、被災者を見舞う人達とで駅はごった返している。
 時計を見ると十二時二十分。何と、五時間十五分も歩いたことになる。
 「お互いによく頑張ったね。」と言いながら、エスカレーターに足を乗せる。
 今は階段は使いたくない。改札を済ませトイレの行列につく。水の出ない公衆便所は、“惨”の一言。開通してたった六時間しかたっていないのに・・・・・。
 さすがにホテルではみんなが丁寧に使ったと思う。香川の若夫婦から貰ったアルコール綿の一片を「長い間ありがとう。」とつぶやきながら捨てた。
 梅田行きの電車はほぼ満席。立っている人もいたが座席も一つ空いていた。もし、タクシーに乗っていたら、まだどこかで止まったままイライラしていただろう。
 車より原始からの足のほうが早くて安心だった、という経験は始めてである。
 文明の脆さとでも言うのであろうか。
 そして、道路にあふれる車の行列さえなかったら、今度の災害、特に火災はもっと被害が少なくて済んだのではないだろうか?
 人命救助だって素早く出来たのではないだろうか・・・・?
 この震災で車は刃物を持たない凶器だと思った・・・・。
 梅田から京都は特急も回復しておりまったく順調だった。四条からタクシーに乗り西陣の高木さん宅に向かった。
 京都の家でも、烏山の私の家でも、みんな心配して大騒ぎをしていたようで、何べんも電話で連絡を取っていたそうだ。高木さん一家も無事帰宅を大変喜んでくれた。
 すぐ我が家に電話して「無事京都に着いた。」こと、「一晩みっちゃんの家にお世話になる。」ことを報告した。
 体中汚れていて何よりお風呂に入りたかった。お風呂も沸かして待っていてくれたが、「温泉のような広いお風呂に行こう。」と銭湯に行き、お互いに傷を点検しあった。
 髪を洗ってみて、みっちゃんの頭にコブが出来ていることが分かった。私は右肩に大きなアザと左肋骨のところが痛い。頬骨も押すと痛い・・・・・。
 夜はみっちゃんの友達も訪ねてきて、家族で地震の後の出来事と興奮を、時がたつのも忘れておしゃべりした・・・・。本当に凄い体験をしたものだ・・・・。
それでも、私たちにしては最上の行動が取れたと思う。一十一が三になったかな?
 ご主人が「ボーイスカウトのデンマザーをしていた二人だから、何とか逃げてくると信じていた。」と言った。そういえば、どうしようかと判断する時、いつも、“今、何をすべきか”、考える癖はついている。歩こうという決断も何もほとんど意見が一致した。
 これが、早めの脱出につながったのかも知れない。
 あの時間の避難者の中で、三宮から来たのは私達だけだった。東灘、芦屋方面から避難してきた方が多かったように思う。若い時の少しの経験も役に立ったのかな・・・・?
 その夜はテレビもそこそこに寝入ってしまった。やっぱり疲れていたのだ。
 熟睡して目覚めると肋骨のところが痛くて起き上がれない。手を引っ張って貰って起きた。みっちゃんも「背骨が痛い」と言う。お互い「検査だけはしておこう」と約束する。
 それでも身体の疲れはすっかり抜けたようだ。
 高木さんのご主人に京都駅まで送っていただいて、新幹線に乗り予定の仕事は済ます。
 肋骨のところは痛いので押さえ押さえ歩く。荷物は全部高木さんのところから送って頂いて身軽なので、自分の体をいたわりながら帰りの新幹線に乗る。
 隣の座席の人か、心配して湿布薬をくれたので人心地ついた。冷湿布が効いたようだ。
 「渡る世間に鬼はない・・・。」ありがたかった。
鳥山駅に着くと夫が改札口近くまで出迎えてくれた。やっと我が家に帰ってきたのだ。
 テレビは神戸のニュースばかり一日中放映していたという。これではみんな心配するわけだ。「凄い所を抜けてきたんだなあ。・・・・」とあらためて無事に感謝した。
 私には帰る家がある。でも、あの焼け出された人達は一体どこに帰るのか。

 日を追うに従って災害は大きくなっていった。あの美しい神戸の街が、廃墟のようになってしまった。私達が抜け出したときは、まだ、ゴーストタウンでも、街並みもビルも残っていた。今はそれを取り壊して、瓦礫と粉塵の街と化しているようだ。
 その中でも一部の商店が店開きし、活動を開始したという。
 「十年たったらまた来て復興を見てみたいね。」とみっちゃんと言ったが、一年後の神戸にも行ってみたい。人間の底力を確かめたい・・・・・。
 みっちゃんの怪我は、肋骨に少しひびが入っていたのと、軽いむち打ちで、手が少ししびれていた。私は単なる打ち身で済んだ。一か月たった今、二人とも完治している。

( 終 )

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