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平城京が現代に伝えるもの–平城宮跡資料館見学記

筆者は建築の設計と改修工事を仕事にしていますが、歴史的な建築や都市、昔の文化にとても興味があります。
先日、奈良市にある「平城宮跡資料館」を見学してきました。この資料館では、8世紀の奈良時代の都市遺跡「平城宮」での発掘調査の成果を展示しています。その展示がとても素晴らしかったので、少しこのブログでご紹介したいと思います。

日本の歴史の中で、710年、現在の奈良市内に、人口10万人の都市が建設され、その後74年間、日本の首都となりました。この都市は、平城京と呼ばれています。 しかしその後、日本の首都は京都などの他の場所に移され、平城京は建物を取り壊して田んぼや畑として使われるようになったため、この場所にかつて都市があったことは忘れ去られました。

地元の人の言い伝えをもとに、19世紀、江戸時代末期に、北浦定政という役人が、自作の測量車を使って、この場所を調べました。その結果、1000年以上ぶりに、この場所に都市があったことが発見されたのです。 その後の時代にも、この敷地のうち、宮廷が位置していた平城宮とよばれる部分を歴史的な遺跡として保存するよう、いろいろな人が力を尽くしました。その結果、現在平城宮跡は世界遺産に指定されています。

平城京の時代には、遣唐使といって、中国の唐王朝へ使節を派遣することや、朝鮮半島との交流がよく行われていました。
そのため、平城京は、唐の長安を参考にして作られ、都市の大きさは、東西に4.3km、南北に4.8kmの範囲が中心になっていました。
この都市の中には、役所、役人の住居、一般庶民の住居、多くの仏教寺院、国営市場、国営の酒醸造所、などがありました。馬も役所が飼育していたようです。
馬は現代でいうと、大統領専用ジェット機のような、政治家専用の乗り物としての位置づけだったのでしょうか。
国営の酒醸造所があったのも面白いと思います。酒造りは当時から儲かる産業だったのかもしれません。

平城京跡資料館では、奈良時代の役所の様子を再現しています。 奈良時代の役所では、役人たちが、全国から献上されてくる物品を記録する仕事をしていました。(当時は、納税は貨幣よりも、物納によって行われたようです。)

オフィスの家具としては机と椅子、書類をしまうキャビネットが使われており、筆記用具としては、筆、墨、硯、が使われました。文字としては、1000文字程度の漢字が使われたそうです。(ご参考までに、現在の小学生が6年生までに習う漢字は、1026文字です。それと同程度の種類の漢字ですね。)
文字を書く対象としては、紙も使われていたようですが、木の皮も使われていたようです。 資料館では、木の皮でできた荷札が展示されています。荷札は使い終わると、表面を薄く削って、新しく出てきた表面に次の字を書くという方法で、繰り返し使うことができました。

日本中の様々な場所から届いた当時の荷札が出土しており、出荷された場所の地名と、荷物の名称が書かれています。(たとえば、伊勢から送られた乾燥アワビ、800g、というような具合です。)彼らがどこで文字を習ったのかは興味深いところです。この遺跡からは、今日の小学生がノートに落書きをするような、いたずら書きも出土しています。役人として採用されてから、文字を習った人もいるのかもしれません。

役人の服装も定められていたようで、冠やベルトなどが出土しています。

平城京跡資料館では、当時の貴族の食事も再現しています。 献立の例をあげますと、
カモとせりのお吸い物
塩、醤油に似た発酵調味料
蓮の実入りご飯
生サケ・大根・のりのなます
鹿肉の塩辛
生かき
干したタコ
ゆでて干したナマコを水につけて戻したもの
車エビの塩焼き
たけのこ、ふき、菜の花を炊いたもの
焼いたあわび
・・・
デザートとして、干し柿、草餅、あずきを煮たもの
というメニューがあります。 ずいぶん美味しそうですね!
味噌やとうがらしは使われていなかったり、寿司や天ぷらや蕎麦はないですが、現代の和食と比べても、それほど遜色ないメニューだと思います。

このほか、当時の貴族の住居も再現されていますが、板敷きの部屋にじゅうたんを敷いてベッドを置いたり、机を置いたりしていたようです。ダイニングテーブルではなく、めいめいの前に小さなお膳(一人前の食器と食物を載せる台)を置いて、そこに食事を並べたようです。部屋が畳敷きでないのが、興味深いと思いました。日本の建物といえば畳を思い浮かべますが、畳はこれより後の時代に取り入れられたようです。

発掘現場からは、土器のお皿やお箸、徳利、コマやさいころ、人形のようなおもちゃも出土しています。 植物の種では、くるみ、やまもも、ひょうたん、もも、うり、などが出土しています。

708年に、埼玉の秩父から銅が献上され、これを利用して銅製の貨幣が作られましたが、このような貨幣も出土しています。

ここで、人々の活動の舞台となった、当時の建物の様子について、少しご紹介します。柱には巨大なヒノキの木が使われていました。また、屋根の仕上げには、瓦や、ヒノキの皮が使われていました。なお、瓦を使うのは、中国の唐朝の建築にならったもので、当時の日本の伝統的な屋根の仕上げ材料は、ヒノキの皮でした。彼らは建物の用途によって、屋根の仕上げ材料を使い分けていました。仏教寺院には瓦を使い、宮殿には最初はヒノキの皮を使っていました。時代が下るにつれて、宮殿にも瓦を使うことが多くなったようです。 このほか、建材としては、木の柱とそのほかの部材を固定するために鉄の釘が使われており、大工道具としても鉄が使われていました。

そして、建物を建てるときには、既存建物の移設が良く行われていたようです。どのように建物を移設したかというと、屋根の瓦を1枚ずつ取り外し、柱などの木材も全て取り外して、新しい建設場所に運び、再び柱を立て、梁を載せ、屋根の下地を作り、瓦を設置する、という方法でした。 これは、廃棄物がほとんど出ず、新しく消費する材料は最小で済み、資源を有効に使うやり方であるといえます。
建物改修の仕事をしている身としては、そのような建物移設が当時ごく普通に行われていたということは、衝撃的でした。

平城京跡資料館の模型展示コーナーでは、筆者はすっかり目が釘付けになってしまいました。 そこには近隣にある唐招提寺の講堂の、年代ごとの模型が展示してあります。この建物は、平城宮にあった宮殿(役所)の建物を、753年に唐から来日した鑑真が設立したお寺として使うため、760年から763年にかけて現在の場所に移設したもので、奈良時代の宮殿建築として唯一現存する建物です。

この建物がどのように形を変えていったかが、模型の展示によって分かるようになっているのですが、まず、役所として使われていたときは、建物には壁があまりなかったようです。

次に、鑑真のお寺として移築・改造されたときには、建具が取り付けられ、屋根は切妻形式から、入母屋形式に作り替えられました。

次に、鎌倉時代の1275年に、大規模な修理が行われたのですが、このときは当時の流行に合わせて、屋根の勾配を緩やかな勾配から、急な勾配に変えました。ただし、柱や梁はもとのものが使われていました。 現在の姿も、鎌倉時代の修理後の姿に概ね近い状態です。

現在の唐招提寺講堂の写真はこちらです。一般の人も内部を見学できますので、こちらもぜひ訪れてみることをおすすめします。

筆者がこの唐招提寺の講堂の変遷の展示を目にして感銘を受けたことは、平城京で働いていた人々と、その後を引き継いだ人々が建物の材料を無駄にせず、建物を大切にして1300年間使い続けてきたことです。建材を使い捨てにしている現代の私達は、彼らに学ぶべきことが多いということに気づきました。

まだ平城宮跡資料館の展示をご覧になったことがない方は、唐招提寺拝観とあわせて、ぜひ足を運んでみることをおすすめします。

平城宮跡資料館ホームページ (nabunken.go.jp)

唐招提寺 (toshodaiji.jp)

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